大判例

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東京地方裁判所 昭和45年(刑わ)7648号 判決

主文

被告人小賀正義、同小川正洋、同古賀浩靖をそれぞれ懲役四年に処する。

被告人三名に対し、各未決勾留日数中各一八〇日を、それぞれその刑に算入する。

訴訟費用は、被告人三名の連帯負担とする。

理由

第一事実

一、被告人らの経歴

被告人小賀は、昭和四二年三月和歌山県立桐陰高等学校卒業後、同年四月私立神奈川大学工学部工業経営学科に入学し、本件当時同大学四年生であつた。母が宗教団体生長の家の信者であつた関係で幼時から同宗教の影響を受け、中学、高校、大学を通して同団体の行なう練成会に参加していた。大学入学後、被告人古賀らの創始した学内のクラブ組織日本文化研究会に属し、同被告人と親しく交わり、同四三年学園紛争の激化に伴い反左翼的学生運動に関心を寄せ、同年秋ごろからこういつた傾向の学生運動を目ざす関東学生自治体連絡協議会(以下、「関東学協」。後に全国学生自治体連絡協議会が設立されてその一地方ブロツクとなる。)に加入し、一時役員を勤めたこともあつたが、運動路線に疑問を感じたりしたため、翌年夏ころには遠ざかつている。楯の会へは、同四三年七月ころ友人の紹介で三島由起夫こと平岡公威(以下単に「三島」)と知り合い、その後自衛隊体験入隊を経て入会(二期生)したものである。

被告人小川は、同四二年三月千葉県立船橋高等学校卒業後、同年四月私立明治学院大学法学部に入学し、本件当時同大学四年生であつた。大学入学後いわゆる第一次羽田斗争を知つたことを契機に、左翼に対抗する学生組織の必要性を痛感し、同四三年春日本学生同盟(以下「日学同」)に加入し、ここにおいて同団体員で私立早稲田大学学生の森田必勝(以下「森田」)と知り合い親交を結ぶようになり、同年六月ころ日学同の系列組織として全日本学生国防会議が発足した際は、右森田の議長に対し同被告人が副議長を勤めたりしたが、同年一一月ころそろつて右両組織を脱退した。楯の会へは、右日学同等の脱退後も同志的結合を保つていた森田から勧められ、同四四年三月自衛隊体験入隊を経て入会(三期生)したものである。

被告人古賀は、同四一年三月北海道立札幌西高等学校卒業後、同年四月私立神奈川大学法学部に入学し、同四五年三月同大学を卒業し、本件当時司法試験に備え受験勉強中であつた。父が宗教団体生長の家の熱心な信者であつた影響で高校時代から同団体の行なう練成会に参加し、同団体の地区高校生組織の役員を勤めた経験をもつ。大学在学中は、同四二年五月友人らとともに、日本伝統文化について輪読討論をすることを目的とした学内クラブである日本文化研究会を組織し、また学内自治会の左傾化に対抗しようとして学生運動に参加し、関東学協の結成に参加して一時役員を勤めた。楯の会へは、同四三年八月自衛隊体験入隊を経て入会(二期生)したものである。

なお三島(本件当時四五才)は、学習院高等科を経て同一九年一〇月旧制東京帝国大学法学部に入学し、同二二年三月同大学卒業後、一時大蔵省に勤務したが間もなく退職し、爾来文筆生活に入り、小説、戯曲、評論を発表するとともに劇演出、映画等の分野においても活躍していたところ、同四三年三月ころ学生中心の民間防衛組織「楯の会」(正式名称は同年九月に付せられた。)を創設し、隊長となつたものである。

また森田(本件当時二五才)は、三重県四日市市所在私立海星高等学校を経て早稲田大学教育学部に入学し、日学同に加わり活動し、同四三年六月全日本学生国防会議発足の折は議長を勤め、後同年一一月被告人小川らとともに右両組織から脱退した。楯の会には、結成初期のころから参加し、同四四年一〇月ころからは同会学生長として隊長の三島を補佐していたものである。

二、本件の思想的背景及び企図

三島は、かねてより天皇をもつて日本の歴史、文化、伝統の中心であり、民族の連続性、統一性の象徴であるとし、かくの如き天皇を元首とする体制こそが政治あるいは政体の変化を超越する日本の国体と呼ばれるべきもので、この国体こそが真の日本国家存立の基礎であつて、これは、現在は勿論将来に亘つても絶対に守護されるべきであること、また軍隊は、現状に照せば国を守るためには必須不可欠の存在であり、その建軍の本義は、真に日本を日本たらしめている右国体を護持するところにあるという観念を抱き、従つて憲法上も天皇の地位を元首とするとともに、軍についても明確に規定すべきであると主張していた。

即ち日本国憲法(いわゆる新憲法。以下単に「憲法」)は、天皇の存在を規定しながら元首とせず、現在存在する自衛隊が物理的には軍隊としての実質を備えているので常識的な憲法解釈としては違憲であるのにそのまま放置されている、しかも憲法そのものが敗戦後、連合国就中米国の占領下において真に自由な論議に基づかず、押しつけ的に成立した屈辱的存在であるから、かような敗戦の汚辱を残したうえ、明白に違憲の存在である自衛隊を姑息な法解釈によつて合憲とごまかしておくことは、延いては日本の魂の腐敗、道義の頽廃を招く基になると主張した。

かような思想信念の形成された時期や過程については証拠上必ずしもつまびらかではないが、三島は、元来日本の古典文化、伝統文化に深く傾倒していたものであるが、昭和三五年(一九六〇年)のいわゆる安保斗争を目の前にして、これを共産主義を初め左翼勢力が青年達を支配している状況として把握し、これを憂え、このまま放置する時は日本が危殆に瀕すると考えたことによるものと推測される。

この時期を転機に三島は、日本古来の精神文化の一層の吸収に努め、日本固有の伝統や文化を強調した独官の天皇論、国体論を理論づけていつたのである。ただ、ここにおける天皇は、文化概念としての天皇であるとし、その非政治的な性格を強調するという独特なもので、軍隊との関係も、天皇はこれに軍旗を授与し、栄誉を与える権能を有するに止まり、統帥権を有することはないとし、憲法改正においても右に止まり、言論の自由、議会制民主主義の擁護を説く極く穏健なものであつた。

三島は、特に武士道、国学の精神などに関心を払い、また大塩平八郎の乱、神風連の乱、二・二六事件、神兵隊事件等の研究を通して、そこに見られる思想哲学に興味を示し、文学等の作品として表わすと同時に、知と行とは本来一つのもので別けることができないものであり、人に一念の動いたときは即ちそれは行なつたことであるから不善の念慮の動いたときはその一念の不善が胸中に潜伏して残ることのないようにしなければならないという知行合一説を、認識したことは実行すべきことをいうと解し、自己犠牲を前提にすれば暴力行為も肯定されるべきである(テロは死の美学)、死をかけた一回限りの生命の燃焼こそが人間を意味あらしめるといつた思想、心情をも抱くようになり、また切腹こそ日本伝統の文化を表現する引責方法であると考えるに至つた。

三島は、前記の如き日本の国体と共産主義とは決して相容れないものと考えていたが、内外の状況からして日本に対する共産陣営からの間接侵略が予想され極めて危険な状態にあるのに、政治家達は党利党略を優先し、私利私欲に走り、こういつた点に関心を払っておらないものとして、政治家頼むべからずとし、同四二年ころ自らこれに対処すべく、民間防衛組織を作ろうと決意するに至つた。そして自ら自衛隊に体験入隊するとともに、全く独力で同四三年四月楯の会を結成した。

楯の会は、学生を中心とする組織で、一朝事ある時に必要な民間防衛組織の幹部を養成することを目的とし、軍人精神の涵養、軍事知識の練磨、軍事知識の体得をはかるものであつて、入会資格は、思想的には天皇の存在を是認すれば足り、かつ、自衛隊体験入隊を落伍せずに経ることのみであつた。そして当面目標とされたことは、昭和四五年(一九七〇年)の日米安全保障条約改定期に左翼による暴動が起り、その際警察の力のみでは鎮圧が不可能になるであろうとし、その際自衛隊が治安出動する必要があるが、自衛隊については種々の論議が行なわれている折から、その決定に手間どることが予想されるので、その間の時間的空白を埋めるべく行動するものとされていた。

ただ三島としては、憲法改正が容易に行なわれないことにいらだちす覚えていたため、一時は、自衛隊が治安出動した際は、必然的に自衛隊の存在意義が明瞭になるうえ、この影響力のもとで憲法改正が行なわれる可能性があるものとして期待し、楯の会としてもこれに協力しうるとの想像を抱いたこともあつた。

しかしながら、同四四年一〇月二一日の国際反戦デーにおいて、新左翼集団による暴力的行動が続発したにも拘らず、自衛隊が治安出動するまでに至らず、その後の治安状態に照しても治安出動は予想されない事態となつた。

そこで三島としては、憲法が正規の手続をもつて改正される見通しがなく、また僅かに期待した自衛隊治安出動の際の憲法改正についてもその機会なく過ぎたため、憲法改正の機会は永遠に去つたものと判断し、深く失望落胆した。同人は、潔癖、誠実、あくまで筋を通さなければ承知できないというその性格もあつて、道義頽廃の元兇と断じていた憲法をそのまま存在させておくことに堪えられず、同様に憲法改正を熱望していた森田からの、楯の会独自で国会を占拠し憲法改正を発議せしめようとの提案が契機となつたものの如く、本件を計画決意するに至つたものである。

被告人小賀及び同古賀は、ともに日本の中心は天皇であると説く生長の家の信者であつたため、天皇崇拝の思想を抱き、しかも憲法について、それが我国の敗戦の結果強大な軍事力を背景にした連合国とりわけ米国の占領政策の一環として、大日本帝国憲法(以下「旧憲法」)を改正して成立したもので、単なる占領基本法に過ぎず、非民主的方法によつて成立させられたものであるから、日本国との平和条約発効により無効を宣せられるべきである(明治憲法復元論)という同教団の説く主張に感化され共鳴していたところ、大学における学生運動に参加して言論等による大衆説得の限界を感じていたため、楯の会を通じて接触を得た三島の命をかけた行動こそ何万語の言葉にも勝るという思想、心情に共鳴し、また被告人小川は、そもそも楯の会入会の動機が大衆運動に対する幻滅が原因となつていたため、同様楯の会という場で三島と接し、その思想、心情に共鳴し、森田との同志的結合もあり、それぞれ本件計画に参加したものである。

そして被告人らは、後述のとおり多少の経緯はあつたが、最終的には自衛隊東部方面総監を拘束して自衛隊員の集合を強要し、檄文及び演説をもつて自衛隊が憲法改正に起つことを訴え、事の成否に拘らず、三島及び森田において古来からの武人の作法をもつて引責自決し、そのことをもつて自衛隊が改憲へ精神的に奮起することを期待して本件行為を決意したものである。

三、犯行に至る経過

自衛隊の治安出動の機会は憲法改正の行なわれる好機であるという淡い期待の裏切られた三島は、楯の会学生長森田とともに自身の行動によつて憲法改正への途を開くための方策を模索し始め、その協力者として昭和四五年四月初旬ころ被告人小賀を、次いで同月一〇日ころ被告人小川を誘い、両名とも最後まで行動をともにする決意のもとに同士となることを応諾した。そして自衛隊員の有志と楯の会会員とがともに武装蜂起して国会を占拠し、両議院議員に対し憲法改正を訴え、その発議をさせるという計画を前提に、同年五月中旬から同年七月上旬ころにかけて三島宅及び都内各所のホテル等において、自衛隊員の蜂起をうながす具体的手段について種々謀議を重ね、自衛隊員有志が自ら決起することは到底期待しえないので、これを促す強行策として自衛隊の弾薬庫を占拠して武器を確保し、同時に東部方面総監を拘束人質にし脅迫して自衛隊員を集合させ、三島らが主張を訴えという案を初め、二、三の案を検討した末、諸々の条件を勘案した結果、被告人らの手で自衛隊幹部を拘束し人質にして自衛隊員を集合させるという案に縮少され、最終的には、拘束し人質にする対象も総監ではなく第三二連隊長とすることに落ち着き、いよいよその実行準備にとりかかることになつた。そして、右三島ら四名だけでは人数が少なすぎるため、同年九月一日被告人古賀を誘い、同人もこれに加わることを承知した。

このころ既に三島としては、自衛隊員らに対し決起をうながしたとしてもこの中から行動をともにする者が出る可能性のないことを予感し、事の成否は二の次とし、一旦行動に出たからには責任を負つて自決しなければならないとの心境を固めており、被告人らに対してもこの決意を披瀝し、被告人らも同様の決意を抱くとともに、以降互に会う機会を多く持つて同士としての結束を固めた。

以後、いよいよ決行の日を同年一一月二五日と定め、都内各所で会つては計画を練つたが、このころには、三島としては、責任をとつて自決するのは自分と森田のみとする旨の意向を示し、被告人ら三名も一応これを承諾した。

その後は、同年一一月一〇日森田及び被告人らで現場となる自衛隊市ケ谷駐屯地に口実を設けて訪れ、下見を行ない、また同月一四、一九日の両日には都内のサウナ浴場において決起の際訴える檄文や要求書を練り、あるいは連隊長拘束後自衛隊員を集合させるに要する時間、三島の演説、他の四名の名乗りその他天皇陛下万歳三唱までといつた行動の順序、時間の配分など細微に亘る打合せ等を行なつた。

ところが決起予定日間近の同月二一日になつて、決起当日は拘束しようと狙つていた当の第三二連隊長が不在であることが判明し、急遽協議したが、計画も既にここまで進行し、互の気持も盛り上つている折から、決起予定日を変更することは不可と判断されたため、むしろ拘束の相手を変更することとなり、当初計画中にあつた東部方面総監に対し三島において電話すると、同日面会の約束を取り結ぶことに成功し、その結果同総監を拘束することで計画を進行させた。

同月二三、二四日の両日は、被告人ら五名とも都内ホテル一室に集まり、同室を総監室に見たてて総監拘束後総監室の各出入口にバリケードを構築して監禁すること、そのうえで要求書を渡して自衛官を本館前に集合させることを要求すること、集合した自衛官らに向つて三島が演説を行ない、その後ほか四名が名乗りを上げること、それが終つた後で、三島、森田が割腹し、被告人らが介錯を行なうといつた行動予定を入念に何回も繰り返し演習し、さらに白布地に要求項目を書くなどし、各自辞世の句をしたため物心両面から当日の用意を整えた。

ところで三島、森田の自決の際の介錯の実行については、さきに三島が森田に対し自らの切腹の折介錯を勤めるように依頼していたが、本件数日前ないし前日にかけて森田は、これを被告人小賀に万一の場合の代行を依頼し、同人も了承し、また森田に対する介錯については森田みずからこれを被告人小川に依頼し、これを依頼された同被告人は被告人小賀、同古賀に対しもしもの時の代行をさらに依頼しているが、いずれにせよ本件について謀議を重ねるうちに、被告人らの間には一体感が次第に高まつて来て、生き残る被告人らの間では、三島、森田を問わず、その介錯実行予定者が実行できないときは、残りの誰かが行なおうとする意思を相通ずるようになつていた。

而して三島は、本件当日の昭和四五年一一月二五日かねて予定していたとおり本件決起行動の逐一を報道させるために、旧知の報道記者二名に対し連絡のつくよう手配をすませ、迎えに来た被告人らとともに三島方を出発したが、その際、森田を除く被告人三名に対し、命令書と題する書面を手渡し、あらためて、被告人ら三名は生き残つて皇国日本の再建に邁進せよと命令し、生き残ることを再度慫慂し、当時自決意思を完全には放棄していなかつた被告人らも、これによつて自決の意思を放棄した。

かくして被告人ら五名は、面会約束時間の午前一一時ころ市ケ谷駐屯地東部方面総監部二階総監室に赴いた。

四、罪となるべき事実

被告人ら三名は、

(一)  三島及び森田と共謀のうえ、昭和四五年一一月二五日東京都新宿区市谷本村町一番地所在陸上自衛隊市ケ谷駐屯地において、陸上自衛隊東部方面総監を監禁し脅迫のうえ同駐屯地内の自衛官を集合させて演説などを行なおうと企て、

1 同日午前一一時過ぎころ前記市ケ谷駐屯地内東部方面総監室において、三島、森田及び被告人らと面談中の同方面総監陸将益田兼利(当時五七才)の隙を窺い、被告人小賀においていきなり同総監の背後から腕で同人の首を締めつけ、手拭(昭和四六年押第六〇九号の30又は31)で口を押塞ぎ、被告人小川、同古賀において交々ロープ(同号の13、14)で同総監の両手を肩まで挙げて各手首を縛つたうえ椅子にくくりつけ、さらに両足を縛り、被告人小賀において手拭(同号の30又は31)を用いて猿ぐつわをし、森田及び被告人小賀において短刀(鎧通し)(同号の11の1)を突きつけ、さらに三島、森田及び被告人三名において同室内の机、椅子、植木鉢等を室内各出入口に積み重ねるなどしてこれを封鎖し、同日午後〇時二〇分ころまでの間、同総監をして同室から脱出を不能ならしめ、もつて同所に不法に監禁し、その際右暴行により同総監に対し約一週間の加療を要する両手関節部・両足関節部・両側膝関節部・内出血、右手背部・右足背部挫創の傷害を負わせ、

2 同日午前一一時二〇分ころ前記総監室内において、右監禁された総監を救助すべく、同室両隣りの幕僚長室側並びに幕僚副長室側各出入口から相次いで総監室に入ろうとしたいずれも自衛官の一等陸佐原勇(当時五〇才)、二等陸佐川辺晴夫(当時四七才)、同中村董正(当時四五才)、二等陸曹笠間寿一(当時三四才)、同磯辺順蔵(当時三三才)並びに陸将補山崎皎(当時五三才)、一等陸佐吉松秀信(当時四九才)、同清野不二雄(当時五〇才)、二等陸佐高橋清(当時四四才)、三等陸佐寺尾克美(当時四一才)、一等陸尉水田栄二郎(当時四一才)、三等陸曹菊池義文(当時三一才)に対し、三島、森田及び被告人小川、同古賀は共同のうえ、三島において「出ないと総監を殺すぞ。」と怒鳴りながら日本刀(同号の8の1)を振りかぶるなどして生命身体に対し危害を加えかねないような気勢を示して脅迫し、あるいは同刀を振り廻わし、さらに同人において同刀で、森田において短刀(同号の7の1)でそれぞれ斬りつけ、被告人小川においては湯呑茶碗、灰皿を投げつけ、あるいは特殊警棒(同号の43)を振り廻わし、被告人古賀において小机を放り投げ、足蹴りする等それぞれ暴行を加え、もつて共同して暴行脅迫をなし、その際右暴行により別紙一覧表記載の清野ほか六名に対し同表記載のとおり各傷害を負わせ、

3 同日午前一一時三〇分ころ前記総監室において、右益田総監及び東部方面総監部幕僚副長吉松秀信をして、市ケ谷駐屯地の自衛官全員の集合を命令させるため、前記原勇を通じて吉松副長に対し「全市ケ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合させ三島の演説を静聴させること、もしこの要求に応じないときは、三島は直ちに総監を殺害して自決する。」旨記載した要求書(同号の5の2)を交付し、さらに再三その口頭で申し向け、さらに被告人小賀に短刀(鎧通し)(同号の11の1)を突きつけられている総監に対し森田において前同旨の要求書を読み上げるなどし、もつて要求に応じさせようとして脅迫し、

(二)1、森田と共謀のうえ、同日午後〇時一〇分ころ前記総監室において、三島が自決するため前記短刀(鎧通し)をもつて割腹した際、同人の嘱託を受けて、森田において日本刀(同号の8の1)でその首を切り落して介錯し、即時同所において三島を頸部切断により死亡させて殺害し、

2  共謀のうえ、そのころ同所において、三島に次いで森田が自決するため右短刀(鎧通し)をもつて割腹した際、同人の嘱託を受けて、被告人古賀において右日本刀でその首を切り落して介錯し、即時同所において森田を頸部切断により死亡させて殺害し

たものである。

第二証拠の標目〈略〉

第三弁護人の主張に対する判断

弁護人は、被告人らは日本においてはその古来から培つて来た歴史、文化伝統が戦後の経済成長のかげで蝕まれ、道義は頽廃し、国家にとつて最も重要なその精神面が破滅の危機に瀕しているのを見て、その状況を救うために本件行動に出ているのであつて、本件所為は、国を救わんとして止むをえずなされた国家のための緊急救助行為であつて違法性が阻却されるべきであると主張する。

よつて案ずるに、弁護人の主張する国家のための緊急救助行為とは如何なるものを指すか明確ではないが、一般に国家又は公共の法益のための正当防衛ないし緊急避難といつた緊急救助行為が許されるかについては論議の存するところであり、仮にこれを是認する立場に立つても、もともと国家的、公共的法益を保全防衛することは国家又は公共団体の公共機関としての本来の任務に属する事柄であつて、これを安易に私人又は私的団体の自由な行動に委ねることは、却つて秩序を乱し法を軟化させる虞があるのであるから、かかる公益のための緊急救助行為は、国家公共機関の有効な公的活動を期待しえない極めて緊迫した場合においてのみ例外的に許容されるべきものと解するのを相当とするところ、弁護人の主張においていかなる国家的法益が危殆に瀕しているとしているのか明かでないのみならず、本件全証拠に徴するも、被告人らが本件各行為に出た際に、国家公共機関の有効な公的活動を期待しえないだけの緊急な事態が存在していたとは到底認められないので、弁護人の右主張は採用することができない。

第四法令の適用

被告人小賀、同小川及び同古賀の判示第一の四の(一)1の各所為は、各刑法第六〇条、第二二一条に該当するので、刑法施行法第三条第三項、刑法第一〇条により同法第二二〇条第一項所定の刑と同法第二〇四条所定の懲役刑とを比較し、重い傷害罪所定の懲役刑(ただし、短期は監禁罪の刑のそれによる。)に従つて処断することとし、同(判示第一の四を指す、以下同じ。)(一)2の所為中原勇、磯辺順蔵、水田栄二郎、菊池義文、吉松秀信に対し数人共同して暴行、脅迫を加えた点は右各者毎に包括して各暴力行為等処罰ニ関スル法律第一条(刑法第二〇八条、第二二二条第一項)、罰金等臨時措置法第三条第一項第二号(被告人小賀についてはさらに刑法第六〇条をも適用)に、同(一)2の所為中清野不二雄、川辺晴夫、中村董正、高橋清、寺尾克美、笠間寿一、山崎皎に対する各傷害については、右各者毎に各刑法第六〇条、第二〇四条、罰金等臨時措置法第三条第一項第一号に、同(一)3の各所為は各包括して刑法第六〇条、第九五条第二項に、同(二)の1及び2の各所為はいずれも同法第六〇条、第二〇二条にそれぞれ該当するところ、右(一)2の各罪並びに同(一)3及び同(二)1、2の各罪につきいずれも所定刑中各懲役刑を選択し、被告人三名の以上の各罪は各同法第四五条前段の併合罪なので、各同法第四七条本文、第一〇条により各最も重い右(一)1の監禁致傷の罪の刑に法定の加重をし(ただし、短期は同(二)1の嘱託殺の罪の刑による)、その各刑期の範囲内で被告人三名をいずれも懲役四年に処し、同法第二一条を適用して未決勾留日数中各一八〇日をそれぞれその刑に算入することとし、訴訟費用については、各刑事訴訟法第一八一条第一項本文、第一八二条により被告人三名に連帯して負担させることとする。

第五量刑事情

被告人らは、天皇が政治あるいは政体の変化を超越する日本の歴史、文化、伝統の中心であり、天皇を元首とする体制が国体であり、かつての我国の軍隊は、国体を護持するのを建軍の本義としていたところ、敗戦により強大な軍事力を背景にした連合国就中米国の我国に対する報復、制裁として旧憲法に違背してこれが改正を強制された結果消滅したが、そもそも憲法は、占領基本法に過ぎず、非民主的な方法により制定されたのであるから、日本国との平和条約発効により無効を宣言し、又は我国の真姿を表わしたものに改正すべきであるのに、漫然として今日に至つたのは日本人として恥辱そのものであり、憲法下にやがて発足した自衛隊は、制度上も精神上も真の国軍たりえず、辛うじて現在の政府を守る機能を有するに止まり、一方政府与党は、その勢力保持、保身に汲々とするあまり、自衛隊が戦力に成長し憲法に違反することが明らかであるのに、詭弁を弄し恬然として欺瞞と偽善を続け、高度経済成長政策に意を注ぎ、我国民の精神陶冶をないがしろにしたため、民主主義の美名の下物質万能と個人の享楽優先の風潮が広くはびこり、国民の精神生活への侵蝕が続けられ、日本人の魂が失われようとしているとの見解に立ち、国体を護持するとともに、自衛隊を前記建軍の本義に基づく真の国軍たらしめるべく、事の成否を度外視し、同隊が改憲へ精神的に奮起することを期待して、これに武士道精神を訴え、延いては国民をして大和魂を自覚せしめ、もつて国体護持の礎石たるべく本件を決行したものであるが、およそ政治の匡正が公論によって決せられるべきことは、民主主義社会の例外を許さない原理であつて、暴力を手段としてこれを行なうことはもとより、暴力によりその緒を作出することもまた許されないところである。被告人らのうち小賀及び古賀は、憲法を目して旧憲法違背のものと強調しているが、憲法の下に立つ裁判所としてこの点は評する限りではなく、憲法を屈辱的なものと考えて改正したいと願うならば、選挙によりこれに賛する多数の両議院議員を選出のうえ、国会の発議により国民の審判にまつべきであつて、その転機を醸成するのはあくまで言論によつてなされるべきことはいうまでもなく、主権が国民に存する民主主義の根本理念からすれば、個々の国民は、互に個人の尊厳に十分な配慮を加えながら、それぞれの場で全力を尽して説得等を試みるべきであり、その志が遂げられない場合でも、その結果は従容として受け入れるべきである。

然るに被告人らは、最高学府を卒業し、又は将に終えようとしていた者であるのに、現代風潮の欠陥を摘出し、これを拡大して痛憤し、思想を同じくする集団にのみ自ら閉じ込もり徒らに危機感を高め、言論による国民の覚醒に方策を尽さないまま、血気に逸つて本件に出たもので、その態様も周到な計画に基づき演習を重ねたうえ、表面平静を装つて判示総監に会い、一転して判示兇器を振うなどして、何ら落度のない素手、無抵抗の総監に襲いかかり、救出に赴いた自衛官にも判示各傷害を与えたものであること、三島において集合した自衛官に対し機を伝えた後、覚悟のとおり切腹自決しようとした際、被告人らとしては遅くともこの時諌止すべきであつたのに、あえて介錯の挙に出で、偉才の処士を鬼籍に入らせ、森田がこの後を追つて切腹するや、その傷として十分生命を保ちうるのに、あえて黄泉の客としたものであつて、被告人らは武士道を標榜しているが、右の如き行為が真の武士道を理解しているといえるものか疑わしいばかりでなく、法の支配に積極的に挑戦し、しかも人間らしい気持の片鱗もうかがえない行為であると評せざるをえないこと、三島を卓絶した師と観じてこれを崇敬する余り厳正な批判を惜しんだ節が窺われるうえ、被告人らの加功がないときは本件の遂行は全くおぼつかなかったと思われるのみならず、近時兇器を所持した集団犯罪頻発の顕著な趨勢に思いを到すとき本件事犯の影響は憂慮に堪えないものがあるのであって、以上の諸点に即すれば、被告人三名の各刑責は、介錯を実行したと否とに拘らず、同様に重いものと断ぜざるをえない。

しかし翻つて考察するに、憲法は、その第九条において戦争放棄等をうたつているが、自衛権は、実定法の規定をまつまでもなく、我国が主権国として持つ天地自然の、即ち固有の権能であつて、憲法の平和主義は、決して無防備、無抵抗を定めたものではないところ、この自衛権の裏付けとして必要最小限度の戦力すら保有しえないものかにつき、旧憲法改正原案作成までの経緯、帝国議会における同案第九条の修正の事情、憲法第九条等の文辞、国際情勢、科学技術の進歩等からして法解釈上深刻な対立があり、さらに自衛のための戦力を保持しうるとの見解に立つても、その限界がいかなるものか不明確であつて、現に存在する自衛隊が合憲か否かにつき、一切の戦力を保持しえないとする立場からは勿論、前記最小限度の自衛力保持を認める立場からも疑念の持たれていることは否定しようもない事実である。

ところで公判廷に顕出された全証拠によつても、自衛隊が違憲か否かは未だ疑いの域を出ず、違憲と断ずるには足りないが、元来国家の基本構造に関する憲法の規定は、その解釈に疑いのないように定められることが理想であり、ことに自衛権、統帥権(陸海空軍という特定の国民を統督し、直接その自由を拘束し、かつ、その生命をも要求する権能)と国民の生命権との調和に関するような枢要な部分について、内外の多端な状勢に鑑み総意をまとめることは非常な困難を伴うことは充分理解しうるところではあるが、さればこそ政治をあずかる国政要路にある者達は、ただいたずらに国論を二分するにまかせ、あるいはなしくずし的に瞹昧な法の運用をもつて既成事実を積み重ね、あるいは固定理念にのみとらわれていてはならない筈のものである。にも拘らず、大多数の国民をして明朗濶達な言論を通じて国政を匡正するという言論の実効性に対する感度を助長させず、ために屡々一部国民が直接行動に出て実定法秩序を無視するという事態を惹起するに至らせている疑いを否めない現実があり、被告人らが自衛隊を国民道義頽廃の元兇と極言する心情は、無下に排斥できないように思われる。

而して本件にあつては、三島、森田及び被告人三名が自衛隊と結託して政治的野望を遂げようとしたとか、武力革命を自衛隊に対し唆かしたとかいう点は窺えず、同人らはひたすら自衛力の保持こそ我国を保全する所以であり、自国の安全を他国の友情や犠牲にゆだねることは独立国家の否定を意味するとし、自衛隊を憲法上の国軍と明定すべきであると信じ、このことを死を決して国民に訴えんとしたものであつて、日本を眷恋する誠直の衷情は否定しえず、その動機に私利私欲なく、粋然たるものがあるうえ、当初から自衛官殺傷の犯意はなく、本件全証拠によつても本件の目的、行動をとつてもつて軍国主義思想の発現ないし推進と断ずることはできないものである。

さらに本件は、一触多殺の兇器を使用した事犯と異り、せいぜい日本刀、短刀といつた武器だけを携行して、近代兵器の備えある自衛隊に乗り込んだものであること、自衛隊側においても被告人らに対する姿勢、応接並びに事件に対する適切な処置に欠けるところがあり、ために徒らに事態を大ならしめたこと、本件の主謀者はあくまで三島であつて、被告人らは、追随的な役割を担つたにすぎないものであること、被告人三名においてみずから刃物で自衛官に斬り付けた証拠のないこと、三島、森田は堅く死を決し、その切腹着手後は、ひたすら介錯を受けることを望んでいたと認められること、傷害を受けた自衛官らは幸いにしてその生命に別条なきを得たこと、事後被告人ら並びに三島及び森田の親族らにおいて財産的損害につき弁償の方途を講じたこと、被告人らは当公判廷において礼節を旨とし、斉整と審理を受け、甘んじて法律の処断を受けんとする廉潔な態度に終始していること、本件以外に格別の非違がないこと、その他同人らの性格、平素の行状並びに経歴及びその家庭事情は、被告人らにとつて有利な情状として能う限りこれを斟酌すべきものである。

当裁判所は、叙上認定の諸事情のみならず、公判審理を通じて被告人らに親しく接し、その人間性に触れ、その処遇につき慎重に審議し、万般の考慮を重ねたが、前記のとおり酌むべき点は多々あるにもせよ、前述犯行の手段、態様、結果等のほか、とりわけ本件が民主主義社会の存立命題に抵触する重大事案であることに鑑み、判示処断を選ばざるをえないのである。

被告人らは、宜しく「学なき武は匹夫の勇、真の武を知らざる文は譫言に幾く、仁人なければ忍びざる所無きに至る」べきことを銘記し、事理を局視せず、眼を人類全体にも拡げ、その平和と安全の実現に努力を傾注することを期待する。

よつて主文のとおり判決する。

(櫛淵理 荒木友雄 本井文夫)

別紙〈略〉

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